不登校は富頭考
1998年、我が家の子供達は二人とも小学生の時に不登校を選びました。
長男は12歳で自殺未遂をしていましたが、写真で生きる希望を取り戻すことができました。
その後、車の免許を取得してアルバイトにも行くようになりました。
今では二人で力を合わせて自立し、働きながらそれぞれ写真家・芸術家として頑張っています。
文部科学省が
[不登校の行為を「問題行動」と判断してはならない] と全国の教育機関に通知していた事を、先日偶然ネットで知りました。
けれども、この通知を知らなかった校長もいると分かりましたので、最初にお伝えいたします。
「不登校を問題行動と判断してはならない
文部科学省
「いじめ」は 重大な人権侵害である
法務省
自殺した青年の母親の思い
これは、不登校の後、二十歳で自殺された息子さんのお母さんから聞いたお話です
「子どもの不登校で悩んでいる人はまだいいんです!
私の子どもは自殺してしまったんですよ!
死んでからは取り返しがつかないんです!」
そう言われてから
しばらく号泣された後、
こう話して下さいました。
「私の息子は中学一年生の頃まではとても明るくて男女問わず人気者だったんです。
それなのに、やきもちをやいた生徒会長が『アイツをシカトしろ』とみんなに命令してから
全てが変わってしまったのです。
うちの子は、クラスを始め全校生徒からシカトされ、だんだん辛くなり、学校に行けなくなってしまいました。
不登校してからも尚、辛い思いは続きました。
「学校に行かなかったら、近所で犯罪があった時にお前が犯人だと思われるんだぞ」と父親に言われて 余計に悔しい思いをしていたと思います。
「学校に行けないなら病院に行け」と言われて、向精神薬等を何年も飲まされ続けていました。
通信高校には入りましたが、家では暴れていました。
二十歳になってから、川に車ごと飛び込んで自殺してしまいました。
でも、遺書がなかったので、警察から自殺とは認められず、ただの事故扱いでした。
家で死んだら私に悪いと思ったのでしょうか…。
元々はとても優しい子でしたから…。
『シカトしろ』と命令した生徒会長の方は、 何事もなかったように卒業して青春時代を過ごし、就職して結婚したと聞きました。
私の息子は家庭内暴力を続けていたので、近づくのが怖くて、こんな辛い思いをしていた事が分からなかったのです…。
『先生がこの作文をもっと早く見せてくれていたら…。私がもっと早く気が付いてやれたら…。』と、悔やんでも悔みきれません…。
私達のように苦しむ親子を、もうこれ以上出さないで下さい。」
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「不登校」は病気ではないのに、病院へ行くと薬を出されてしまいます。
向精神薬等、薬の副作用で、無気力になったり、自殺したくなる事や、暴力を振るってしまうようになる事も分かっています。
『不登校』への、言われなき誹謗中傷の苦しみや、薬の副作用から 一人でも多く、大切なかけがえのない命を守る為に、
お母さんから預かっていた息子さんの最後の作文を公表させて頂きます。
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不登校の後、二十歳で自殺してしまった青年が 亡くなる1ヶ月前に書いた作文です。
『「死ぬんじゃねーぞ!!」 いじめられている君はゼッタイ悪くない』
中川翔子さんのYouTubeです。
『「死ぬんじゃねーぞ!!」 いじめられている君はゼッタイ悪くない』
中川翔子さんの電子書籍と単行本です。
『学校は行かなくてもいい』という本を書いている元不登校児 小幡和輝さんの思いです
頭を下げて謝った県の医師会会長
2000年当時、不登校を支援するはずの大きな会合が県で開催されました。
大分県の医師会の会長が、最初に
「不登校の原因には二つあります」と言いました。
「私は不登校生本人にも保護者にも 一度も会った事はありませんが、精神科医である友人から聞いた話をお伝えします。」と言ってから、
「不登校の原因は …。
一つ目は子どもが病気です。
そして、二つ目は親が病気です。」
医師会会長がそう言った途端に、私は手を上げて こう言いました。
「私の子供達は二人とも不登校ですが、病気ではありません!私も病気ではありません!
二人の子供達の『写真展・作品展』を開催して不登校の父兄からの相談に乗っています。
不登校の子供達は良い子が多いのです。
一度も会った事がないのに、『不登校は病気だ』と決めつけるのはおかしいです!」と…。
それを聴いて、
大分県の医師会の会長は、壇上で頭を下げて 「すみませんでした…。」と謝りました。
子供達の優しさ
その後、私は『不登校は病気ではない!』と証明できる日が来る事を 心から祈り、願って文化活動を続けて行きました。
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時が経ち、我が家の子供達も大人になりました。
2021年11月17日、 私が兵庫県加古川市での写真展終了後に転倒して脳内出血をおこしていた為、加古川市の病院で緊急入院した時、 長男は偶然岡山にいたらしく、病院から連絡を受けて車で兵庫県まで飛んできてくれました。
長男は大分に帰ってからも、 私の必要な物と一緒に 励ましのメッセージや心のこもったプレゼントを病院に送ってきてくれました。
箱を開けると 一つ一つに込められた長男の真心と優しさに、 涙があふれて止まりませんでした。
退院時には仕事を休んで、大分から兵庫の病院まで迎えに来てくれました。
まるで私の保護者のように、 医師から説明を受け、自分から医師に幾つか質問している長男を見て 「大人になったなぁ…。」と思いました。
そして 長男が退院祝いにご馳走してくれた ケーキや食事の幸せなひと時は、 私にとって忘れられない、【生涯の心の宝物】となりました。
我が子の不登校で悩む保護者の皆さんに、 「いつか必ず皆さんにも、こんな幸せな日が来ますよ」と お伝えしたくて、「不登校・我が家の場合」を 書かせて頂きます。
我が家の不登校の歩みです
私の長男は、1997年、小学校5年の4月、新任の男性教師に理不尽にクラス全員の前で何度も殴られました。
それを見ていた近所の同級生の女の子が、泣きながら私に「先生、悪い!!大塚君にあんなことをしたらいけん!!…」と言いに来てくれました。
PTAも家庭訪問もまだの時期でした。
翌朝、私は教師の本心を聞こうと、体育館での全校朝礼終了後に担任にこう聞いてみました。
「先生、大塚の母です。うちの子は勉強があまり好きではないのですが、塾にやった方が良いでしょうか?家庭教師を付けた方が良いでしょうか?」と…。
その時、担任は躊躇なくこう答えました。
「あぁ、お母さん、お宅の子供さんはどうせ駄目ですよ。
僕も昔、家庭教師をして、お宅の子供さんのような生徒をみましたが、駄目でしたから、お宅の子供さんもどうせ駄目です。」と…。
担任教師が、そういう気持ちで、みんなの見せしめのように理不尽に殴ったと知って、「この教師に何を言っても無駄だ」と私はその時思いました。
ある日突然、
その担任からこう言われた事もありました。
「お母さん、クラスの子供達からこんな事を言われて困っています。
『大塚君は腹が痛いと言って保健室に行っているのに、なんで給食だけは教室に食べに来るんですか?』と…。」
そんな目でクラスメートから見られながら給食を食べている長男の気持ちを思うと
たまりませんでした。
お腹が痛くて通学の途中で足が動けなくなるほどの事があり、
病院に連れて行くと
GOTやGPTの数値が高くなっていました。
ストレスが身体に出るほど辛い思いをしていたのかと、長男に申し訳なく思いました。
それでも、母子家庭でしたし、学校へ行かなくていいという選択があるとは知りませんでしたし、誰にも相談する事も出来なかったので、
私から長男に「学校へ行かなくていいよ」とはなかなか言えませんでした。
その後、一言では言い尽くせないほど、いろんな事がありました。
長男の五年生最初の担任の暴力や
その後のいろんな事を
学校側に直談判していたので
配慮される事を信じていました。
ところが長男が6年になった時、
同じ担任だったので
親子で愕然としました。
ある日、
とうとう、長男が「ボクはもう学校に行きたくない」と言ったので休ませました。
2日目は
長男が、「生きるのが辛い」と言ったので学校を休ませたら、女性の教頭が我が家に飛んで来て
玄関先の外で
大きな声で私をこう言って責めました。
「お母さん!
学校を3日休んだら癖になります!
登校拒否になったら
就職出来ないし、犯罪者になるんですよ!
お母さんの責任ですよ!
そうなってもいいんですか?」
登校拒否の子は
うちの学校でお宅だけですよ!
お母さんが離婚したから悪いんじゃないですか?
お母さんが優しいから悪いんじゃないですか?
お母さんが怒らないから悪いんじゃないですか?
お母さんが仕事をしてるから悪いんじゃないですか?
生活保護を受けて
家にいてあげたらどうですか?
(この時の言葉は 一生忘れられません...。)
そして、
「教室に入れないなら、
先生方の休憩室に連れて来たら、出席日数にしてあげます」と言われ、
腹が煮え繰り返るほど悔しかったのですが、
誰にも相談出来なかった私は仕方なく
嫌がる長男を何とかなだめて
翌日から車で学校のその休憩室に長男を毎日連れて行きました。
その後は更にいろんなことがありました。
長男をみていた教師から
「お宅のお子さんは(国語や算数の)プリントをちゃんとやらないんですよ」と言われた時は
「生きていたくない子を無理やり連れて来させておいて、何と言う事を!」と思いました。
その教師はいつも私に長男の文句ばかり言っていました。
長男がようやく優しい用務員さんと仲良くなり、心を開いて一緒にゴミを焼いたりしていた時には、少しだけ笑顔が戻っていました。
ところが、その事を知った教頭は
「あの人は教師の資格を持っていませんから!」と言って、長男から突然その人を引き離してしまいました。
その日からまた長男の笑顔が消えて、日中は死んだような目になり、二階で寝ていたのに、夜中から朝方まで何度も泣いて階段を降りてくるようになりました。
こんな毎日が続いても、どうしてよいのか分からず、
(不登校)支援のはずのところに連れて行っても余計に長男を傷つけるだけでした。
そんなある日、私が長男を迎えに行って、教師達の休憩室のドアを開けた途端に
長男が私に向かって
「お母さん!!助けて!!」と泣く声が聞こえるような目をして腕を伸ばしてきたのです。
長男を何人もの男性教師が取り囲んで、犯罪者を尋問しているように見えました。
私が、「いったいどうしたんですか!?」と聞くと
その中の一人が
「大塚君がポケットに千円持っていたから、どうしたのか聞いたら、
「おじいちゃんにもらった」と言うので、おじいちゃんに電話して聞いたら「知らない」と言われたから、こうして大塚君に本当にとったんじゃないかと聞いていたんです。」と…。
お年玉で祖父からもらった千円は、
祖母が工面して祖父からとくれたものでしたから、祖父は「知らない」と答えたのでした。
私は携帯を持っていたので、私に聞いてくれればまだ良かったのに、
しかも、「大塚君の口から、
「本当に僕がとったんじゃない」と聞きたかっただけだったんです。」と答えた人はその小学校の教師ではなく、市の人権に関わる仕事をしていた知人でした。
私はその時、
「もう長男にはこんな人達ばかりいる学校へ行かせない。」と
やっと腹を決めました。
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帰ってから、私が長男に
「もう、学校には行かなくていいからね」と言うと
長男は涙を流して
「ありがとう…。」と言いました。
そして、
「ボクはママに何をしてあげたらいいのだろう…。」とも…。
短歌に込めていた当時の思い
小学校の教頭や校長からまで 酷い事ばかり言われた後、
私が書き留めていたこれらの言葉を持って、県のPTA新聞のコラムに、子供達を思う優しい言葉を書いていた方のところへ 「この人なら分かってくれるだろうか」と、相談に行った時のことです。
その人は、最初に
「お母さん! 伸ばした腕が泣き叫ぶ 声にならない 目が泣き叫ぶ」
こう書いた紙を見た途端、
「嫌だ!! 見たくない!! 書いた文字が訴えている!! 僕はもうやめるんです。 退職するんだ。 もう関係ないんだ。 帰って下さい!!」と大きな声で言われたのです…。
校長まで勤め上げて、更に県の教育関係の仕事をしている人間が 子どもの事で悩んで相談にきた保護者に言う言葉なのかと驚きました。
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私達親子は ここまでの思いをして 不登校を選びました。
けれども、 「学校よりも命の方が大切だ」と 学校に行かない選択をしただけで、 更に今度は 世間や何も事情を知らない家族からまで責められ追い詰められて、生きるのが辛くなるほど大変になりました。
起死回生の転機になった
「不登校新聞」との出逢い
そんなある日、 書店でたまたま手に取った雑誌に掲載されていた「不登校新聞」の文字が 私達親子に生きる希望を取り戻すきっかけを与えてくれました。
不登校新聞社に電話してみると、 九州の通信員さんを紹介してくれました。
その方がじっくりと私の話を聞いて下さり、 「お母さんは何も悪くありませんよ」と言って下さったので有り難くて嬉しくて号泣しました。
そして、 東京で不登校児や父兄1000人が集まる催しの事を教えて下さったのです。
1998年10月に東京で開催された 「『不登校新聞』秋の集い」では 不登校経験者の青年達が社会で活躍している話も直接聴く事が出来て 「学校へ行かなくても、親子で生きていてもいいのだ!!」と感激で涙があふれて止まりませんでした。
1998年12月5日には (フリースクール 東京シューレの)ホームシューレによる 家庭で過ごす子ども達の作品展が 東京で開催されました。
一緒に展示した次男のオリジナルの作品達も大好評でした。
1998年12月5日の「子どもたちの作品展」の様子が12月15日の不登校新聞に掲載されました。
不登校新聞の1999年1月1日にも紹介されています。
その時の為に作って展示していた次男のワイヤー作品が大好評でしたから、 更に作り続けた作品と一緒に 翌年(1999年)3月に北九州市で開催された「手作りワールド博覧会」に出品したところ、 次男の作品は 「手作り大賞コンテスト」で大賞を受賞することができました。
1999年3月29日
小学校の卒業式当日、長男の卒業証書が隣家の子供に預けてあった事を私は不登校新聞に投稿しました。
不登校新聞(1999年4月)の記事です
不登校になって、子供達が全く外に出ようとしなかった頃の事です。
二人は本屋とビデオ屋だけは
私と一緒に車に乗って出かけていたのですが、
ある日ふと
私は子供達が二人共、後部座席の足元に隠れるように頭を埋めてしゃがみ込んでいたのに気が付きました。
私が
「なんでそんな事をしてるの?」と聞いたら、
長男が
「学校へ行ってないだけで、近所の人から犯罪者を見るような、白い目で見られるのがたまらないんだ!!」と言ったのです。
私は言葉を失いました。
「卒業式事件」からしばらく経ったある日
長男は私にナイフとお腹の1.5センチほどの傷跡を見せてこう言いました。
「ボクは切腹しようとしてナイフをお腹に刺したんだ。でもナイフが横に切れなかったんだ…。」
私は心が凍り付きそうでした。
どんなに苦しかったことか
どんなに辛かったことか…。
一人で傷の手当てをして、私にも言わずに…。
気付いてやれなかった申し訳なさと、
横に切れるナイフでなくて良かった…。
生きていてくれて良かった…。
もしも長男が死んでいたら、私はおかしくなっていたに違いありません…。
私はその時、長男に何と言ってやったのか
覚えていないのです。
(今、書きながら涙が溢れて止まりません)
そして長男はこんな言葉を 独り言のようにつぶやきました。
「生きてても 仕方がないし 死ねないのなら 『ノストラダムスの予言』を待ってる…。」
この言葉を聞いて、私は胸が引き裂かれるようでした。
「長男にも何とかして、自信と生きる希望を取り戻してやるんだ!」
「世界中を敵に回しても、私が子供達の命を守るんだ!!」そう固く心に誓いました。
長男が生きる希望を取り戻すきっかけになった
豊後富士にかかる夕陽の写真
そんなある日、
「子供達に壮大な景色を見せてやりたい」と思い、
夕陽の撮影に二人を一緒に連れて行くと、長男は素晴らしい写真を撮ったのです。
写真屋さんを始め、不登校の親の会の皆さんも
長男のこの写真を褒めて下さいました。
それを伝えた時に長男が少し照れ臭そうに笑ってくれたので、
私はそれから毎日毎日、会う人毎に12歳の長男が撮った写真を観て頂きました。
長男に
「今日は何人の方に観て頂けたよ」
「今日は何人の方が褒めて下さったよ」と、毎日伝えていたら、
ある日、長男は私にこう言ったのです。
「よし、もっと多くの人に観てもらえるようになろう!
そうだ、1,000人の人に観てもらえるようになろう!
その為にはどうするか…。
もっと良い写真をたくさん撮って行こう!!」
そして長男は自分のカメラで、毎日何時間も近くの自然を撮影に出かけて行くようになりました。
私も、精一杯、長男の写真と次男の作品作りを応援してやりました。
そして私達親子に転機が訪れました。
1999年9月14日、
大分合同新聞に
「不登校で自信なくさないで」という見出しで
大きく報道されたのです!
自主上映会の会場で 長男の撮影した写真と次男の作品展示を紹介する記事でした。
この新聞が出た途端に、近所の人の(不登校児を)見る目がガラリと変わりました。
「大塚さん、お宅は学校へ行かずにどんな教育をなさっているのかと思っていましたが、素晴らしい教育をされていらっしゃったのですね…。」と…わざわざ私を呼び止めてこう言って下さったのです。
当日、会場には350人の来場者がありました。
感嘆の声と様子を見ていた子供達は、多くの人に褒められ、認められて、照れ臭そうにしながらも、嬉しそうでした。
私が万感の思いを込めた歌を
当時まだ不登校に無理解だった
子供達の祖母に書いてもらい、
会場に飾らせて頂きました。
その時の思いを書いた記事を不登校新聞に投稿したら、 そのまま後日 掲載して頂きました。
1999年9月15日
「見えない学校」上映会当日
会場で子供達の写真や作品も見て下さった講演会の講師が、私の知らない間に、長男にインタビューして下さっていました。
人間不信になっていて、大人とは誰とも口をきかなかった長男が、
こんなにたくさん喋っていた事を私は後から知って、とても驚き、平井さんに心から感謝しました。
そして、東京シューレの「親の会」が発行していた 「親のメッセージ」 1999年11月号には、 もう少し詳しく当時の思いを書いた手記を掲載して頂きました。
「親のメッセージ」1999年11月号に掲載
2000年2月12日には大分合同新聞に
「不登校乗り越え芸術で開花」
長男は風景写真で
二男ワイヤーアート
「大分市の兄弟 湯布院の美術館に出品」と
大きな見出しで掲載されました。
その記事は、
何年も頑なに「不登校を許せない」と怒り続けていた
子供達の祖父の心を変えてくれました。
「新聞を観たぞ!」と電話がかかってきて
私にこう言ったのです。
「子供達に『ようやった』っち褒めちょけ!」と(笑)
更に
私達親子が住んでいた地域の自治会長さんも、その記事に感動して下さり、
次の写真展を掲載したポスターを付けて全戸に回覧して頂けたのです。
その後も
世間に「不登校」への理解を広げる為に、そして不登校で悩み苦しむ保護者の方々の相談に乗れるようにと、
各地で子供達の「写真展・作品展」を開催しては、何度も新聞に掲載して頂きました。 「2000年4月14日 読売新聞」 「不登校の兄弟が写真・作品展」
2000年9月4日の
大分合同新聞には
大きく目をひくように
「不登校児見直そう」
「私たちの心を知って」
「親や教師も学ぼう」
というタイトルや見出しが書かれました。
10月4日に開催される
東京シューレ主催奥地圭子さんの講演会の紹介でした。
当日、会場のロビーには
東京シューレの子供達の様子や活躍を紹介する大きなパネルを二枚作って展示し、
私の子供達の写真や作品も観て頂きました。
この講演会も、「聞く会」の皆さんと一緒にPRしていましたが、
私は推されて代表になっていましたので、 市内全部の小学校の校長にチラシを持って行き、全校生徒に配布して頂けるようにお願いにまわりました。
そして
「講演会の開会の時に、代表挨拶の代わりに大塚さんが作った歌を歌ってほしい」とスタッフの皆さんから言われていたので、
会場いっぱいに来て下さったお一人お一人の心に届くように、
そして
いちばん後ろの席に座る長男に
「生きていて欲しい」という願いを込めて
「君と」を歌わせて頂きました。
何度も取材でお世話になった大分合同新聞の記者さんから、
歌の終了直後に
「大塚さん、みんなハンカチを出して泣いていましたよ。」と言われて驚きました。
皆さんに想いが伝わった事に感謝して胸が熱くなりました。
嬉しい後日談をいろいろ皆さんから聞かせて頂きましたが、
いちばん嬉しかったのは
この日から20年経って、
大人になった長男から
「あの歌は忘れられないよ…。」と言われた事でした。
子供達の作品展の一場面です。
これは1999年に福岡県北九州市で開催された手づくり大賞コンテストの授賞式の様子や子供達の言葉を 五七五調に書き留めていたものです。
2000年5月31日には
大分合同新聞に
「個性豊かワイヤ造形」というタイトルで掲載
東京ビッグサイトで開催された日本ホビーショーで、次男が大賞を受賞した事が紹介されました。
2002年4月17日の 大分合同新聞では 「伸びて輝け!みんなの作品展」というタイトルで 写真や作品と共に、長男と私も紹介されました。
その他の新聞記事
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「新聞記事については、それぞれ新聞社の掲載許可を得ています」
長男は車の運転免許を取ると、働いて自分の力で撮影に行くようになりました。
そしてその後、
鹿児島で撮影した桜島の噴火の写真で受賞する事ができました。
撮影地で出逢った方や、 応援して下さる皆さん方のおかげで、 県立高校を始め、美術館、国民宿舎等で講演会を開催して頂けるようになりました。
「僕は人の役に立つ人間になりたいんだ。」
「人と人との架け橋になりたいんだ。」
そう言って、素晴らしい出逢いに感謝しながら、九州を始め、北海道まで撮影に行っています。
お知らせ
開催期日はまだ未定ではありますが、京都府八幡市の文化センターで私と長男の 「親子展&トーク」を企画しています。
会場には「みんなの作品展」コーナーを作って、皆さんのいろんな作品も一緒に展示させて頂きたいと考えています。
一人でも多くの人に
「生きる希望」を取り戻してもらえますように…。
これから作品やスタッフを募集しながら、少しずつ準備を進めて行きます。
どうか楽しみにしていて下さい。
その日まで、どうか
生きていて下さい。
生き抜いていて下さい。
あなたに出逢える日を
心からお待ちしています。
【終わりのご挨拶】
今、世界では「ホームスクーリング」「ホームエデュケーション」として、かなり多くの国々で、何百万人もの大勢の子供達が家庭で伸び伸びと学び、育っています。
学びの選択肢としてたくさんあるので、「不登校」という言葉がない国もあります。
私達親子も『不登校』当初は大変苦しみましたが、
今では「子供達が『不登校』してくれたからこそ、今がある」と、心から感謝しています。
『子どもが生きていてくれること』
その事がどんなに有り難いか、
それは、世の中のどんな事よりも
いちばん大切な事なのです。
子どもも大人も夢や希望を失わず、
生き生きと輝く笑顔で暮らせるようになって欲しいと毎日祈り願っています。
最後に
不登校経験者18名が、当時の経験や仕事の体験等を書いた本、
「学校へ行かなかった私たちのハローワーク」(東京シューレ出版)をご紹介します。
単行本も電子書籍も出ています。
(私も夢中で読みました。)
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「『不登校』でも大丈夫なんだ。」と、ご家族が安心されたら、みんなで
笑顔で過ごせるようになってきます。
一人でも多くの子供達の
大切な命が守られますように…。
祈りと真心を込めて…。
2022年8月24日
元不登校児であり、
元不登校児二人の母でもある
大塚 典子
全国不登校新聞社
『不登校新聞』note版 創刊あいさつ
なぜ不登校の親には情報が必要なのか
1998年、私達親子が不登校でいちばん苦しかった時に出逢えた「不登校新聞」
この「不登校新聞」のおかげで
私達は『生きる希望』を取り戻し、
未来に羽ばたく勇気を頂きました。
当時不登校生だった石井さんが
不登校新聞の代表になられていて、
更にこの度
不登校新聞のnoteの創刊あいさつをされています。
万感の思いを込めて紹介させて頂きます。