新実存主義とはⅡ

実存主義に根ざした新しい世界観


 私は自分が生きていて、ものを考えたり、認識したり、からだが脳を中心に精密に動き続けたりすることに、非常な不思議さを感じています。
 複雑な分子運動の結果、最初に生命らしきものが発生して以来、38億年という膨大な時間の間に、進化という分子の塊の複雑化が続いてきた結果、ヒトのような動物が存在するようになった。
 最初に生命らしきものが発生した、分子運動の複雑化だけでも、奇跡だと思えます。それがヒトにまで進化したということを、38億年という膨大な時間を考えても、奇跡以外のなにものでもないと思えます。
 私は「自分」、それぞれの生物にとっての「自分」ということを非常に意識しています。
 私自身にとって「自分」というものが、他の何ものにも替えられない存在であることが出発点にあります。
 自分の感じている「世界」があるから、「世界」が存在している。
 「もの」が存在する、「世界」が存在するというのは、自分が「もの」や「世界」を認識しているから存在している。
 自分という存在がなくなれば、「もの」も「世界」も存在しなくなる。
 自分という存在があることが「もの」や「世界」が存在することのすべてなのだと思います。
 私がこのような考え方をするようになったのには、私の高校生の時の体験がベースにあります。高校2年生の世界史の授業中のことです。
 「皆さん、一度目を閉じて、ゆっくり呼吸して下さい」
 実存主義の説明についての先生の最初の言葉でした。
 「もし、その状態であなたの感覚神経の伝達が脳に伝わらなくなればどうでしょうか。その状態をゆっくり想像してみて下さい。何もなくなりますね。あなたの脳だけが何かを考えようとしています。しばらくして、その脳が何も考えなくなったとします。どうですか。周りの世界や何もかもがなくなっていますね。世界や物が存在するのは自分の脳が感覚神経の伝達を受けながら、ものを考え、感じているからなのです。そんな人間や動物の存在の仕方を実存というのです。」
 このように話された先生の言葉が、長年、私の中で浸透していきました。あれから、何十年も経った今も、先生の言葉が私の中でどんどん膨らんで来ています。先生の言われたと私が思っている「実存」や「実存主義」の説明が正確なものかどうかは別にして、先生から聞いたと思っているこの言葉が私の新実存主義の核を作っています。

 私は化学を幾分かかじってきた人間なので、分子の運動と言えば試験管やフラスコ内的な分子運動の在り方を想像することがよくあります。
 複雑化した分子の運動がそれ自体で何日も動き続けることはあまり考えられません。
 そんな感覚で考えたとき、生命発生時の複雑な分子の塊が永続的に動き続けるようになった現象は奇跡が起こったとしか言えません。
 38億年前、あちらこちらで起こった奇跡が、更に奇跡を生んで、38億年間という想像を絶する時間の流れの中で、何十年も動き続けるヒトという分子の巨大な塊を作って行った。これは途轍もない奇跡の連続の結果です。
 ヒト以外の生物でもこれは同じです。
 繁殖を続け、集団生活をするアリたちの中の一匹のアリでも、存在することが途方もない奇跡なのです。
 そう思った時、アリを一匹でも殺すなんで出来なくなります。

 また、先に言ったように、ヒトである自分にとって、<世界>が存在するのは自分の脳が感覚神経の刺激を受け止めて、モノが存在することを認識し、脳が<世界>を組み立てているからです。
 感覚神経からの刺激がなくなり、脳が機能をしなくなれば、モノが存在しなくなり、<世界>がなくなります。これが自分の死です。
 近親者を含め、自分以外の人間の死と、自分の死はまったく違うことです。自分以外の人間が死んでも<世界>は存続し続けますが、自分が死ねば<世界>がなくなります。
 これはヒト以外の動物でも同じです。アリ一匹についても、そのアリが生きていれば、そのアリから見た<世界>が存在しますが、そのアリが死ねば<世界>がなくなります。
 アリ一匹の存在がそのアリの<世界>を存在させているのです。
 そう思った時、アリを一匹でもやはり殺すなんで出来なくなります。
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