ご挨拶

 京都・伏見の雑居ビルの一階ガレージで会社を立ち上げ、現本社のある竹田藁屋町に移転したのは、創業から6年後の昭和60年6月のことです。以来、半導体分野の中でも最先端の化合物半導体製造装置に特化した研究開発型企業として研鑽を重ねて、「薄膜技術のサムコ」として少しは世に知られる存在となりました。私が今日まで事業を続けることが出来た背景には、大学を始めとする多くの友人知人との交流、優れた技術、社員の頑張り、市場の拡大など様々な要因が有りますが、第二ステージの地として選んだ立地の良さも大きいと考えています。世界的な大企業である京セラをはじめ、多種多様なものづくり企業が周囲に集積しており、名神高速道路のインターチェンジはじめ交通基盤の整う、企業活動の好適地です。
 我が国の戦後復興と経済成長をけん引したのは、紛れもなくものづくりのチカラです。「失われた30年」と揶揄される長期低迷から我が国が脱するため、この国はものづくりのチカラを再び取り戻すことが不可欠です。とりわけ京都のまちは、古より発展した内陸型製造業の街であり、またベンチャーの都とも称されています。新たな産業活力を生み出す拠点として、「らくなん進都」が京都の最適地であることは言うまでも有りません。
 京都市政においても数十年来まちづくりを推進して来られましたが、当初の絵姿からみれば道半ばです。行政への期待は引き続き大きいということは言うまでも有りませんが、当地で事業を営む我々企業人が積極的に関わることで「らくなん進都」のまちづくりに貢献できると考えます。「らくなん進都」は、北は十条通から南は宇治川まで6百haを超えて非常に広大ですから、まずは日ごろ私たちが事業を営む東高瀬川界隈から「らくなん進都」のまちづくりをリードしたいと考えています。
 世界で活躍する中堅企業やものづくりベンチャーの集積を官民協働で進めるとともに、この街に立地する企業群が成長することで、「一兆円規模の産業集積を成す東高瀬川ビジネスパーク」となることを目指して、この度「東高瀬川ビジネスパーク構想」を提案します。志を共有できる皆さんとご一緒に、構想を実現して参りましょう。

 

東高瀬川ビジネスコミュニティ 会長 辻理  


東高瀬川ビジネスパークとは

 京都市では、市南部を南北に貫く幹線道路である油小路通沿道を中心に、約607haに渡る広大な市街地を「らくなん進都」として位置づけ、長年に渡り「南部創造のまちづくりの先導地区」に相応しい企業集積、良好な都市環境の形成に向けた取組が進められてきました。
 中でも「らくなん進都」の中央部に位置する「東高瀬川エリア(東高瀬川~油小路通沿道、城南宮道~大手筋)」は、ファッション産業団地やACT京都なども立地する産業ポテンシャルの高い地域です。今後も「新たな価値を創造する企業の集積・交流エリア」としての発展が期待されています。
 このような背景を踏まえ、2022年8月、「らくなん進都」のまちづくりにおいて、長年に渡り中心的な役割を果たしてこられたサムコ株式会社創業者の辻会長の呼びかけにより、ご当地に関わりのある企業の経営者や京都市成長産業創造センター(略称:ACT京都)など有志が集いました。京都市や金融機関も連携する形で、京都南部に相応しい新たなビジネスパークを東高瀬川界隈に構築することを目指し、「東高瀬川ビジネスパーク構想」を2023年3月に取りまとめました。
 今後、本構想を踏まえ、行政当局や関係機関と連携しながら、その実現を目指したいと考えています。


東高瀬川ビジネスパーク・立地

 当該地区は、「らくなん進都」の中央部に位置し、北は“城南宮道” 南は“大手筋” 東は“東高瀬川” 西は“油小路”に囲まれる地区で、京都駅からバス(らくなんエクスプレス)で約18分、竹田駅から徒歩約9分の立地となっています。地区面積は、約42.6haです。
 高速道路等の交通利便に長け、ファッション産業団地やACT京都など支援拠点が立地する産業ポテンシャルの高い地域となっています。
 周辺には、城南宮、安楽壽院陵、三栖神社をはじめとした史跡や、伏見の酒蔵などが立地します。

東高瀬川ビジネスパーク・地区の成り立ち

 近世以降、高瀬川を用いた京への物資輸送において、中継地として重要なポジションを担った地域でした。昭和中期以降のインフラ整備や区画整理事業を機に、多様な産業集積がなされてきました。
 地区の大部分は、かつての旧伏見町の周縁部に位置し、地区北部は旧竹田村、地区南部は旧下鳥羽村に当たります。伏見町の中心部は、両側町を基本とした市街地が今に残る一方、「毛利町」「治部町」「島津町」は国名・役職名等を町名としたものです。伏見城下に建設された大名屋敷やその名前に由来し、道路で区画される市街地構成を有します。

東高瀬川ビジネスパーク・歴史 東高瀬川(新高瀬川)の役割

 徳川氏の支配下に入った時代、民間活力を導入した公共事業が多数実施され、角倉了以による高瀬川開削もその一つでした。高瀬川舟運は、京都・伏見間を直結するとともに、大坂方面からの通船を伏見から高瀬川を北上して京二条へ到達させる役割を担っていました。
 東高瀬川の開鑿とその舟運の開始は、以前は下鳥羽から陸路が中心であった中世洛南の交通体系や物資輸送に大きな影響を与えました。(参考:『史料京都の歴史 伏見区16(平凡社)』)

■近年のまちづくりの歩み

画像をクリック(2回)すると大きくなります